| 日航123便(御巣鷹山)事故から30年、航空の安全を考える 2015年 乗客・乗員520人の犠牲者を出した、1985年(昭和60年)8月12日の日本航空123便事故から30年の歳月が流れました。1985年8月12日は「ジャンボ機は安全」という安全神話が崩れた日でもありました。 現在、日航の社内で事故当時の様子を知っている社員は1割になっているそうです。その大きな理由は2010年の経営破綻の際、希望退職や整理解雇が行われ、ベテラン社員が一気に減少したことにあります。事故後に入社した社員は、御巣鷹山事故よりも経営破綻に大きな衝撃を受けています。私の在籍中(解雇される直前)、社内には、「債権者や株主に多大な迷惑をかけた」と、破綻に責任がないにもかかわらず、社員に懺悔をさせるような風潮が蔓延していました。 今年(2015年現在)は事故後30年ということで御巣鷹山事故が注目されていますが、「安全問題」を考える上で、御巣鷹山事故以前の日航はどうであったのか?事故のあと、その教訓は生かされているのか?を振り返ってみたいと思います。 事故と職場の状況は無関係ではない 航空機事故は原因がそれぞれ異なります。一つの事故でも、いくつかの要因が重なり合って起こることがほとんどです。事故調査は本来再発防止のためのものです。私たちは事故に至ったあらゆる要因について、公正かつ科学的な調査と対策を期待しているのですが、現実はそうはなっていません。残念ながら事故原因について一部の関係者の発言を鵜呑みにし、世論をミスリードすることが良くあります。人間のミスが原因であっても、何故ミスをしたのか、を究明することこそ、本来の事故調査の目的の筈なのです。ところが直接の原因を突き止めても、事故に至る背景についてまで切り込むことはないのが日本の現状です。つまり、余ほどの事がない限り経営責任や行政責任について追及することはありません。日本の事故調査は、運輸安全委員会が行っていますが、国土交通省の外局に位置づけられているために、独立した機関としての機能を果たせるのかも疑問のあるところです。 また、事故調査では航空機メーカーと航空会社との利害関係が働くこともあります。そういう中で、事故に至る要因や背景にまで踏み込んで、不安全要素を排除することを正面から要求できるのが労働組合です。ですから、労働組合の弱体化は安全性の後退でもあります。日航の事件や事故の歴史を振り返ると、当時の社会的な背景や職場の状況と深く関係しています。日航で事故が多発してきたのは、決して偶然ではありません。会社が現場の声を聞いて真摯に対策を講じていたなら、日航は別の歴史を歩んだと言っても過言ではないでしょう。 乗員組合役員4名の解雇と組合分裂、そして1972年の連続事故に 日本航空は1951年(昭和26年)に設立され、1953年から1987年に完全民営化されるまで「日本航空株式会社法」の下、半官半民の航空会社として日本経済の成長と共に事業と路線網を拡大してきました。日本航空乗員組合は1954年9月に結成されました。当時のパイロットは外国人が多く日本人パイロットとの賃金格差の是正は職場の強い要求でした。 1964年(昭和39年)11月12日、乗員組合は初のストライキを決行しました。理由は、労使協定を破って外国人機長を大量にジェット機に導入させたこと、カイロ-カラチ間に乗務していたナビゲーター(航空士)を一方的に取りやめたことでした。これに対して会社は、翌年4月、乗員組合三役と教宣部長の4名を懲戒解雇しました。この解雇事件に合わせるように事故が始まり、安全を求める乗員組合の闘いの歴史が始まったのでした。 解雇翌年の66年7月、乗員組合は分裂攻撃を受け、会社の意を受けた運航乗務員組合が設立されました。会社の介入は、「乗員組合に残れば機長にさせない」「組合を移れば機長訓練に投入させる」など、アメとムチを使った激しいものでした。職場の抵抗は1年以上続きましたが、結局、乗員組合員は被解雇者を含めて僅か8名の組合となってしまいました。 解雇された小嵜委員長ら4名は労働委員会や裁判で闘い、次々と勝利しました。闘いを通じて、懲戒解雇の不当性や、副操縦士への機長昇格差別など、会社の違法行為が次々と職場に明らかにされました。こうした乗員組合の闘いに影響され、運航乗員組合の中から組合の民主化を求める声が急速に高まりました。乗員の職場の変化に危機感を持った会社は、今度は、運航乗員組合から機長を分断させるために1970年(昭和45年)8月、世界に例のない機長全員管理職制度を導入させたのでした。 会社は組合弱体化の狙いを隠すために、1970年(昭和45年)3月に発生した“よど号”ハイジャック事件で機長の権限が強化されたことや、7月1日に日本で初めてジャンボ機が就航したことを、管理職制度導入の理由にしました。しかし職場は、機長全員管理職制度が労務対策であることを見抜いていました。 こうした職場の状況下で起こったのが、1972年のニューデリーとモスクワの連続事故でした。連続する事故で日航は「伸びすぎた翼」「異常な労務管理」など、事故の背景にある経営体質が厳しい批判を受けることとなりました 東京地裁で地位保全の仮処分命令を獲得、本訴では解雇撤回で勝利判決、都労委、中労委では、解雇は不当労働行為と認定されました。連続事故と法廷での連敗、そして世論の批判の前に、会社は1973年7月19日、ついに小嵜委員長ら4名の解雇撤回・原職復帰を約束し乗員組合との協定化に至りました。その後、11月22日、乗員組合と運航乗員組合が組織の統一を実現させました。836名の運航乗員組合員が8名(内4名は被解雇者)の乗員組合へ統一したのでした。 解雇撤回協定で会社は、「本件解雇が、労使相互の信頼関係の維持発展を阻害してきたことを反省するとともに、明るい職場が運航の安全を確保するために必要であることを十分認識し、本件の全面解決を通じて労使関係の正常化と明るい職場づくりに努力する」と約束したのでした。 連続する事故、そして123便(御巣鷹山)事故へ しかし、会社は労使関係の正常化や明るい職場づくりの約束を守りませんでした。機長を全員管理職とした為に、チームワークに必要な乗員相互の一体感が生まれないばかりか、操縦室内での権威勾配が大きくなり、安全運航に不可欠な“自由にものが言える職場”に逆行する状況となってしまいました。 それどころか、1975年1月には「企業体質強化委員会」を発足させて、今度は客室乗務員組合に分裂攻撃をかけ組合の弱体化を図りました。利益を優先する経営にとって“ものを言う労働組合”の存在が邪魔であったからです。 こうした職場状況の中で、次々と事故は起こりました。1975年12月のアンカレッジ空港でのジャンボ機のスリップ事故は、悪天候のため出発を遅らせていたところ、東京からのテレックスで羽田空港の夜間の閉鎖時刻を機長に知らせ、機長に出発を急がせたことが指摘されました。1977年1月のアンカレッジでの貨物機墜落事故は、生きた牛を一頭でも多く搭載させるために、牛をバラ積みした結果、離陸直後に荷崩れしたために起きた事故でした。1977年9月のクアラルンプール事故では、悪天候で雲中飛行中に、機長が規定された最低降下高度以下に下がるのを、他の二人の乗員が制止しませんでした。1982年2月の羽田沖墜落事故は、会社が機長の精神的な異変を把握していながら、そのまま乗務させて起きた事故でした。そして、1985年8月12日に起こったのが、単独機の事故としては史上最悪の事故となった日航123便(御巣鷹山)事故でした。 会社創立から御巣鷹山事故までの日航の歴史は事故の歴史と言っても良いでしょう。 <御巣鷹山事故までの主な日航機事故> 1951年 8月 1日 日本航空(株)設立 9月27日 日本航空乗員組合結成 1952年 9月30日 マーチン202木星号 三原山に衝突(37名死亡) 1957年 9月30日 DC-4型機が伊丹空港で不時着(5名軽傷) 1961年 4月24日 DC-8型機、箱根号が羽田空港で大破 1963年12月30日 DC-8型機、訓練中に沖縄で2基のエンジンを脱落 1965年 2月27日 CV-880(コンベア)型機が訓練中に壱岐空港で墜落全焼 1965年 4月27日 乗員組合役員4名の懲戒解雇 12月25日 DC-8型機がオークランド空港(アメリカ)に緊急着陸 1966年 8月26日 CV-880羽田空港で訓練中に大破国家試験中5名死亡) 1967年10月 5日 仙台訓練所の訓練機H18が山形で墜落(4名死亡) 1968年11月22日 DC-8サンフランシスコ着水事故(全員無事) 1969年 6月25日 CV-880 MHWで訓練中に墜落事故(訓練生3名死亡) 1970年 3月31日 日航機“よど号”ハイジャック事件 8月 1日 機長全員管理職制度の導入 10月14日 PSA訓練機パイパーアズテック墜落(訓練生1名死亡) 1971年 3月22日 新田原でメンター訓練中に墜落(訓練生1名死亡) 1972年 5月15日 DC-8羽田空港で離陸に失敗(16名負傷) 6月14日 DC-8ニューデリー事故(86名死亡)地上で4名死亡 9月24日 DC-8ボンベイ空港誤着陸、機体大破(11名負傷) 11月28日 DC-8モスクワ事故(62名死亡。14名重軽傷) 1975年12月18日 B747機アンカレッジでスリップ事故(11名負傷) 1977年 1月14日 DC-8貨物機アンカレッジで墜落(5名死亡) 9月27日 DC-8クアラルンプール事故(34名死亡、45名重軽傷) 1982年 2月 9日 DC-8羽田沖墜落事故(24名死亡、87名重軽傷) 1982年 9月19日 DC-8上海空港でオーバーラン事故(27名重軽傷) 1985年 8月12日 B747御巣鷹山事故(520名死亡、4名重傷) 1986年 6月12日 日本航空機長組合設立 経営陣が一新:伊藤淳二会長の就任 御巣鷹山事故当時、日航は人員を削減して従業員数2万人体制を目指していました。整備の現場では、人員を減らす中でも「儲ける整備本部」を標榜、外国航空会社の整備を受託して利益を上げる政策を進めていたところでした。 事故後の年末、中曽根首相の肝いりで、カネボウ出身の伊藤淳二氏ら新経営陣が就任しました。伊藤氏は現場を廻り、労働組合との交渉にも自ら臨みました。 新経営は、「絶対安全の確立」「現場第一主義」「公正明朗な人事」「労使関係の安定融和」を経営の柱に掲げました。これら四つの方針は、それまで労働組合が求めていたもので、職場から歓迎されました。 具体的には、運航部門では機長の労働組合活動を認めました。客室部門では客室乗務員の組合所属による昇格差別の是正に取り組みました。整備部門では機付整備士制度を設けて、飛行機ごとに責任体制を明確にしました。「機長の組合活動の自由」や「昇格差別の是正」は、それまでの労働組合の運動の成果と言えるものでした。特に機長が会社に“ものを言う”職場になってから、MD-11名古屋事故や、B747ニアミス事故などはありましたが、旅客の死亡に至る事故は起きていません。機長の団結権の回復は、日航の安全運航に大きく寄与してきました。 新経営方針は順調に見えましたが、客室乗務員の昇格差別是正で、労使協調の全日本航空労働組合(現:JALFIO)は強く反発、政治家や一部マスコミを動員して猛烈な伊藤会長バッシングを展開しました。また政府も擁護することなく、伊藤会長は、僅か一年半後の1987年3月末に退任することになりました。 伊藤会長は退任のあいさつで次のように述べています。「同じ職場の、しかも大部分が大切な青春時代を送る女子乗務員が、二つの組織に分かれて、不信と対立にすぎゆくこの悲しい現実を、一日も早く解決することなしに、日航に明るい明日は決してやって来ないでしょう」と。 違法体質は引き継がれた 伊藤会長の退任後に、経営内部に隠されていた放漫経営の実態が次々と暴露されました。ニューヨークのホテルや、ハワイのリゾート開発など本業以外の数々の事業での失敗です。損失額は1300億円にもなりました。また、1985年の御巣鷹山事故の前後に、11年先までドルの長期予約をした結果2200億円の損失を出すことになりました。最近でも2008年に原油の先物取引で1900億円の損失を出しています。1994年の関西空港開港に向けて、和歌山に社宅と寮を建てましたが、山林を坪45万8000円という破格で購入していたことも分りました。しかも手数料問題で疑惑を持たれています。また1998年には暴力団総会屋への利益供与事件が明るみに出ました。 一方職場では2007年には、会社が労使協調のJALFIOと共同で9862名にも及ぶ客室乗務員のプライバシーを侵害する「個人情報・監視ファイル」を作成していたことが週刊朝日によって暴露されました。この問題では193名の客室乗務員が提訴、日航は「監視ファイル」作成自体が違法と東京地裁から断罪されました。ところが、驚くべきことに、会社は「監視ファイル」作成に関わり断罪されたJALFIO幹部を、後に管理職に抜擢したのでした。更に営業部門で日航は、2008年に米司法省から2000年から2006年までの間に行った国際貨物の違法カルテルを摘発され、日本円で112億円の罰金を支払っています。 そして経営破綻へ 放漫経営に加えて、見過ごせないのが航空行政の問題です。政府は1990年の日米構造協議の対米約束で430兆円(後に630兆円)の公共投資を約束、実需を無視して空港を建設、そのために全日空と日航だけで毎年3300億円もの高い公租公課(着陸料など)を負担してきました。また、貿易不均衡是正のためにジャンボ機を113機も購入、こうしたことが経営を圧迫させていました。そうした中で2008年秋にリーマンショック、更に09年の新型インフルエンザで航空需要は大きく低迷しました。特に売り上げの55%を占める国際線の落ち込みが収支を大きく悪化させ、経営破綻へとつながって行きました。そして、2010年1月19日、政府指導の下で日本航空は経営破綻し、再建が進められました。 経営破たんを前にした2009年12月、作家の柳田邦男氏を座長とする「日本航空安全アドバイザリーグループ」が「新提言書」を発表しました。この「安全アドバイザリーグループとは、2005年の相次ぐ運航トラブルで、日航が事業改善命令を受けた際に立ち上げた組織です。「新提言書」は4年前に出した提言の進捗状況と、成果を確認するため、10カ月間にわたって経営トップや職場を訪問して纏め上げました。新提言書には、次のような記述があります。 「安全への投資や各種取り組みは、財務状況に左右されてはならないのであって、相対的に見るならば、財務状況が悪化した時こそ、安全への取り組みを強化するくらいの意識を持って、「安全の層」を厚くすることに精力を注がなければならないのである。決して安全の層を薄くすることで、コスト削減を図ってはならない。薄氷を踏みながら航空機を運航するエアラインを、誰が選択するだろうか。」 「社員の活気や意欲、自由な創造性、自由にものを言える職場、業務のあり方や将来について議論する機会のある職場などはすべて安全の基盤である。」 「ベテランの社員が体に染みつかせた技術やノウハウが、その社員の退職とともに消えてしまうのは、組織として大変な損失である。そのような無形の財産ともいうべきベテランの技量やノウハウを次の世代に継承していくには、職場における人間同士の日常的な生身の接触が重要である。」 これらは過去の事故の教訓から導かれたものでした。 歴史を繰り返してはならない 経営破たん後、政府の要請で京セラの稲盛和夫氏が最高経営責任者として日航会長に就任しました。稲盛会長は就任直後、社内報で「全ての社員が物心両面において本当に幸せになってほしいと願っている」と発信しました。経営の神様と言われる稲盛氏に職場全体が再建の期待を寄せていました。しかし2010年の大晦日、日航は希望退職に応じなかったとして、年齢と病気欠勤歴を基準に165名(パイロット81名、客室乗務員84名)を整理解雇したのです。年齢基準は機長55歳以上、副操縦士48歳以上、客室乗務員53歳以上と言うものでした。 解雇時には、既に人員削減目標は超過達成していました。営業利益についても史上最高とも言える1586億円をあげていました。しかも解雇後に稲盛会長は「165名の解雇は必要なかった」と公の場で発言しました。ところが、裁判所は原告側の主張を全て排除して、「更生会社」であり、企業存続のために管財人の行った整理解雇には合理性がある、と不当な判断をしました。 稲盛氏は整理解雇後、日経ビジネス誌のインタビューで、「利益なくして安全なし」の経営理念を明らかにして、「日航の社員は御巣鷹山事故がトラウマになっている」と言い切っています。整理解雇後の職場では、燃料削減のために台風に突っ込む機長や、飛行前点検で転倒し、ろっ骨を骨折した状態で羽田まで乗務した機長の例が報告されました。また客室乗務員の職場では緊急脱出の際に必要なドア操作を失念したり、食事を運ぶカートの飛び出しや転倒が相次ぐなど、これまで想定しなかった事例が多発しています。 解雇以後、2015年7月までにパイロットは185名以上が、日航を辞めて他社に流出しています。客室乗務員については既に2300名もの採用が行われています。しかし、日航は165名を戻しません。それは、被解雇者がベテランで労働組合の中心的な役割をしてきたからです。利益を優先する日航に“もの言う労働者”や“労働組合”は邪魔だったからです。 1人ひとりの労働者は電気系統の中で言えば感知器であり、労働組合は警報器の役割を果たしています。165名の整理解雇は、日航経営が、自ら感知器のワイヤーをカットしてしまったことであり、また警報器そのものを捨て去ったことに等しいものです。ところが、裁判所はこれを追認し、行政は容認しています。しかし、私たちは理不尽な解雇を認めるわけにはいきません。御巣鷹山事故から30年、私たちの解雇撤回の闘いは、解雇自由社会を許さない闘いであり、同時に空の安全を守る闘いでもあります。 |
【事故の時でさえ組合所属を優先した会社】(東京高裁結審 客室乗務員の意見陳述から 抜粋) 1985年8月、単独機としては史上最悪の520名の方が亡くなられた御巣鷹山事故を経験致しました。あの絶望的な状況の中でも、パイロットや客室乗務員が、お客様の生命を守るために最後の瞬間まで懸命にその任務を全うしようとしていた様子が深く胸に刻まれました。 御巣鷹山事故を含む日本航空で起きた事故で、犠牲となられた735名のお客様や仲間の無念さに思いを馳せる時、保安要員として自分の役割を忘れる訳には行きませんでした。 御巣鷹山事故の直後、会社が行った記者会見のテレビ画面で、白板に事故機に乗務していた客室乗務員の名前が映し出されました。その名前の横に、「客乗組合員は赤丸・全労組合員は青丸」という所属組合別の印がつけられていました。組合からの抗議でその印は取り去られましたが、全社一丸となるべきこのような非常時でさえ、社員の安否よりまず組合所属を優先させるという会社の姿勢を見せつけられました。 さらに事故当日、混乱した現場近くの群馬県上野村へ徹夜で駆けつけた客乗組合の役員に対し、「客乗組合の方は結構です」と、援助の申し出すら拒否されたということを知らされました。 いずれも日本航空の労務政策の異常さを象徴する出来事であり、公共交通機関として、あるまじき事だと思います。心底憤りと情けなさで一杯になりました。 この痛苦の事故の教訓を踏まえ、新経営陣が確立した方針が「絶対安全の確立」「現場第一主義」「労使関係の安定」でした。これこそが、日本航空の再建の原点であり、現在は勿論、将来に渡って引き継がれるべき基本方針です。 ■警鐘を鳴らしている安全アドバイザリーグループ 経営破綻直前の2009年12月、柳田邦男氏を座長とする安全アドバイザリーグループの「新提言書」は、「守れ、安全の砦」と題して、全役職・社員のモチ ベーションの重要性を強調しています。そして、日本航空の社員としての誇り、意欲の減退や一体感の希薄化は、『安全の層』を薄くすることに直結すると警告 しています。まさに、安全アドバイザリーグループの危惧が現実の問題となっていることを植木社長は認識すべきです。 ■植木社長の驚くべき発言 1985年8月12日、520名の犠牲者を出した御巣鷹山事故を「日本航空の安全の原点」として、全社員が必死になって安全運航に努力してきました。植木社長も一社員として頑張ってきたはずです。 ところが、2014年11月11日の機長・先任組合との経営協議会で、日本航空の連続事故の背景が議論になった際に驚くような発言をしています。 【機長組合】 日本航空が、過去の多くの事故で744名の尊い命を奪ってきたことは事実ではないか? 【植木社長】 それは事実。 【機長組合】 日本航空の社長として、その事故の歴史と、その背景にある労使関係を背負っているのではないか? 【植木社長】 私は、その歴史の延長上にいるわけではない。経営破綻があって再生して、あるべき論でやっている。 【機長組合】 日本航空という会社は法的に継承されている。その認識は認められない。 ■御巣鷹山事故は日本航空の安全の原点 月刊誌「ZAITEN」2014年12月号に日本航空の特集記事があります。記事の中には、生花を抱えて墜落事故の慰霊塔に向かう植木義晴社長の写真が挿入されています。対外的には御巣鷹山事故の反省を装い、社内的には「過去のもの」と忘れさせようとする2枚舌の経営姿勢は許されるものではありません。 植木社長の経営姿勢は、安全問題を真剣に取り組む社員に対して「御巣鷹山事故がトラウマになっている」と安全を後回しにする稲盛名誉会長発言と同じ立場に立ったものです。 「最小の費用で最大の収入(売上)」を標榜する経営理念によって、今の職場は、人が足り無い、時間が無い、部品も無いの〝ナイナイづくし〟の状況となっています。 日本航空の安全の原点、御巣鷹山事故の教訓を風化させてはなりません。植木社長は、自分の頭で考えて、安全最優先を貫くとともに、不当解雇撤回と労使関係の改善を図るべきです。 再建合理化による人員削減と労働条件の改悪の中で職場から活力が奪われ人材流失が続いており、強化された財務基盤とは裏腹に安全運航をさえる経営基盤の脆弱化が進んでいます。 表向きには経営破綻から脱却し上場を果たした日本航空ですが、その労務政策は旧態依然としており、ますます職場の実態は悪くなっています。 本気で経営側もこの争議を労使で話し合って解決するという姿勢を見せない限りは泥沼に陥る可能性がとてつもなく大きくなっているのが現状です。 |